考える繭

セルフ自己啓発や自己分析、思考の整理とか備忘録のためのブログ。

好きだけど嫌いな話。

ここ数日、絵を描くことや絵について考えると、胸がギュッと苦しくなる。

 

そして、それに向き合わず、「僕は絵が好きなはずだ」「また好きなものが嫌いになるのは怖い」と、その感情から逃げてしまっていた。

でも、逃げてばかりではいられない。それでは以前の僕のままで成長できないと、ふと思ったのだ。

 

何故、胸が苦しくなるか。

とことん考えを書き出してみることにした。自分の闇に触れるといえば、少しは厨二っぽくてカッコいいかもしれない。

 

一番に思い当たるのは、練習がキツイことだ。お絵描きをする際に練習として行う模写は、自分が描けないという事実に真っ向から直面するため、上手く描きたいと思っているほどダメージが大きい。

かと言ってサボると、観察する力は即座に下がる。モノを見る力は、数日で脳から剥離してしまうのだ。

 

だから、練習はキツイ。

でも、やらなきゃ観察力は下がる。

という2択状態になってしまう。

 

悩んだ際の僕によくありがちなのだが、視野狭窄からの強制2択を自分に強いることが多い。

2択は物事を単純明快にし、思考をクリアにするが、それは考えていないのと同義である。

ましてや、焦っている時や精神が揺らいでいる際の選択は控えるべきだと、昔主治医にも散々言われた言葉だ。

 

つまり、ここで僕がとるべき正解は

一旦保留。落ち着いたら考える。

という、棚上げ戦法が適切だろう。

 

悩む余裕があるときに、じっくり悩めばいいのだ。

 

さて、次に思い浮かぶのは上手くならないという悩みだが、よく考えてみるとこれはさっきの悩みの派生である。というか、ほぼ同じものだ。

次は、上手い絵に嫉妬してしまうことだが、これも結局は同じような悩みである。

 

こうして書き出してみると、あれだけたくさん悩みがあったはずなのに、その殆どが同質のもので、ただ見方を変えたり、表現を変えただけのものだと気がつく。

要するに、考えていく過程で、細分化しすぎて悩みの数を見誤ってしまっていたのだ。

 

ざっくりいえば、僕の絵に対する悩みは全て

練習は嫌い。下手なのがコンプレックス。

ということに起因しているのだろう。

 

練習しなければ上手くはならない。というのは当たり前だが、嫌なことは上手くならない。というのも真理だと僕は思っている。

 

絵という趣味は少し特殊で、自分の力量を自分で判断しなければならない。

絵柄に正解もなく、描き込みの量も千差万別だ。

これをすれば上手くなる。これを覚えればいい。という方程式も人によって異なり、最終的には培った経験値と感覚がその人の絵を決定するのだと思う。

 

だからこそ、こうして悩むのは必然なのだろうし、悩むということは、それだけ絵が好きなんだろう。

苦しくなるほど悩む趣味を持つというのは、大変ではあるが、とても価値があると思っている。

 

 

 

余談。

最近。リアル友人が作品を出展し、webサイトにまで載っていた。それを見て、素直にすごいと思う気持ちと、羨ましいと妬む気持ちが芽生えた。

 

僕は自分がおかしくなったのではないかと思った。友人を妬むなんて変だと。僕自身、作品を出展しようと努力もしてないのに、それを羨ましいと思うなど。

その友人の努力も、能力も、全部ではないが見てきたはずだろうと。

 

そしてハッと気がついた。

僕は、そんな友人に釣り合う人間なのかを気にしていたことに。

その行動力、努力する姿勢、力強い心。全てが僕の持っていないもので、輝いて見える。そして、それを持っていない自分を見て、酷く幻滅してしまうのだ。

 

これら気持ちの根底にあるのはおそらく。ずっと仲良くしていたい。という気持ちなのだろう。

嫌いな相手や興味がない相手であれば、釣り合う人間かなんて気にもしないだろうし、嫉妬することに悩むこともないだろう。好いている友人にだからこそ、こうした感情が湧いてくるのだ。

 

眩くも誇れる友人達に感謝するとともに。

僕ももう少し、誇れる友人になる努力をしていきたいなと思うのだった…

 

…明日から。

被害妄想と自分勝手

良くない想像をしてしまうというのは、一種の危機回避能力でもあるのだが、あまりに想像が大きくなってしまうと、何もできなくなってしまう。

人に迷惑じゃないか。

いい大人がとか思われないか。

変な目で見られないか。

そんなことを考えて、何も出来なくなってしまうことがある。

 

気付き

お絵かきをしようとした際に、「どうせ上手く描けないしな…」と考えている自分に気がついたとき、少し不思議な気持ちがあった。そもそも、うまい絵を書きたいから始めたのではなく、狐っ娘を描きたいという気持ちから描き始めたのである。

少し上達してきて欲が出てきたのか、うまくなりたいという気持ちが全面に出すぎてしまっていたのだ。

 

うまい絵を見ては劣等感を覚えることが多くなってきたのだが、少し視点を変えて考えてみると、「レベルの差」を正しく認識できるようになってきたのではないか?と考えた。

 

僕と音楽

例えば、音楽に関して僕はなんの知識もない。あのオタマジャクシも読めないし、使えるのはハーモニカとソプラノリコーダーとアルトリコーダーで止まっており、今その3つの扱い方を覚えているのかも怪しい。

そんな状態であるから、音楽に関しての上手い下手が一切わからない。好きな曲や好きな雰囲気まではわかるのだが、それが技術的にどれほど優れているのかと言った部分は一切わからないいのだ。

 

よって、音楽をしている人に対しては、すごいという感覚はあれど、「自分は楽器弾けないし…」と、劣等感を覚えたことは今まで無い。

深く知らないから、自分とどのくらいのレベル差があるのかわからないのだと思われる。

 

絵に関しても、似たようなことが言えるだろう。

つまり、お絵描きをしていない人からすれば、絵の上手さはさほどわからないのではないかということだ。

僕が思っているほど、人は僕の絵に興味がないのだ。

 

人の興味

興味がないと言ってしまうと悪い印象になってしまうのだが、要はそこまで気にしすぎることはないというニュアンスである。

僕が音楽の良し悪しを全く分からないのと同じく、側からみれば絵の良し悪しなんて大した問題ではないのかもしれないな…という話なのだ。

 

このご時世。どうしても人目が気になることは多々あるし、認めてもらいたいなと思う気持ちも湧いてくる。

しかし、実際は人はあんまり自分に興味がなく、さほど期待もしていないのかもなと、心のどこかで思っておくことで、人は何かの趣味や行動に対して、少しだけ「自分勝手」になれるのかもしれない。

 

 

怒りと依存

昨日の夜、実家にて隣の部屋の弟がやけにうるさかった。

ここ最近というか半年くらいその騒音に悩まされていたため、ついつい戸を大きく叩いてしまったのだ。

 

弟は基本的に自分本位であり、悪いやつではなく能力もあるのだが、いかんせん内弁慶でカッコつけたがりな側面がある。

そんな彼にとっては僕が戸を叩いて苦言を呈したのが気に食わなかったのだろう。

静かにしてほしいと言ったら

「こっちも楽しみたいんで」

という意味の分からない返答が、憤りを感じさせる震える口調とともに返ってきた。

おそらく、「楽しみたいから邪魔するな」と言いたかったのだろうと推測し、静かにしてほしい旨を伝えたが、終始下を出したりでまともに聞いている雰囲気はなかった。

 

そこで久しぶりに怒りという感情がじわじわとこみ上げ、前頭葉のあたりがブワッとあたたまるのを感じた。

これはよろしくない。そう、とっさに思ったのだ。

 

本題

たまにしょっちゅう不機嫌だったり、怒りを発露している人を見かけては、何がそこまで怒りに執着させるのだろうと思っていた。

 

感情を吐き出すことは大事だし、それ自体に僕が口出しするということも的はずれな行為ではあるので、特に何も言ったり制したりはしてこなかった。

ただし、何故?という疑問は常につきまとっていた。感情的になることはかなり疲れるし、特に怒りという感情は肉体へも精神へも負荷がかかる。誰しもしょっちゅう怒りたくはないはずである。

 

しかし、今回久々に頭に血が上る体験を肌で感じ、いくつかの興奮作用が働いているのを理解し、怒ることによる興奮作用と覚醒効果が凄まじいものであると判明した。

実際、脳が変にスッキリと冴え渡ってしまい、朝まで心臓の音が妙に近くなり、眠ることができなかったのだ。

 

ようやく落ち着いた頃、数時間ほど仮眠を取り、先程自分に起きたことを考えていた。

これは一歩間違えば自分も常に怒っている人…、怒り依存症になってしまうなと危機感を覚えたからである。

 

久々の怒りは、僕の脳に覚醒をもたらし、鼓動を早め、思考をクリアにした。その一瞬、怒り以外の小さな悩みや不安がかき消えたのだ。焦燥感や無力感といった一切合切の雑念は、怒るという一点に脳が容量を割いたために、隅に追いやられてしまったようだった。束の間、僕は悩みを忘れることができた。

 

この感情に近いものを僕はよく知っていた。

 

少し真面目な話

自傷行為というのは様々で、その目的も多岐にわたる。

ただ、多くは苦痛から一瞬だけ逃れるための手段として用いられていると思われる。要はスッキリするのだ。

痛みや血そのものを目の当たりにし、痛みを抑えるための脳内麻薬が分泌され、その副次的な効果によって、悩みや不安がかき消される。もちろん根本的な解決にはならないし、その後に急速な離脱症状のようなものが来るため、自己嫌悪に陥ることで悪循環となってしまう。

輪ゴムなどで痛みを軽減したり、赤いペンなどで擬似的に自傷を再現するなどして慣らしていき、少しずつ減らしていくという治療が一般的で、最も確実だと思われる。

 

似た者同士

何が言いたいのかというと

怒りと自傷行為によって得られる開放感は、かなり近しいものなのではないかと言うことである。

 

あの、ふっと脳が冴える感覚。鼓動が早くなり、身体が熱くなる体験。

それらに強い恐怖を覚えたのは、自傷による快楽に似ていたからである。

 

ここまで考えが至ってしまえばあとは簡単な話で、よく何かしらに怒ってばかりの人は、怒りによって分泌される脳内麻薬による快楽を知り、怒る癖がついてしまったのだろう。自傷行為に依存するように。怒りに依存しているのだろうと思われる。

怒りによって冴えわたる思考は、不愉快にも心地よく感じてしまった。元喫煙者として、ニコチンなんかよりも遥かに脳がクリアになる感覚があり、人体にこんな作用があるのかと感心してしまった。

 

僕は専門家ではないので、自分の体験からの推測しかできないが

怒ることでストレスを発散するという手法は、結構リスクのある行為なのだろう。そのうちだんだん癖になっていき、しまいには依存のような状態になってしまうのだと考えられる。

人体で生成される興奮剤であるため、タバコやアルコールのように摂取しなければいいとはいかず、一度ハマってしまうとなかなか元の自分を取り戻すのは困難を極めることが容易に想像できる。タバコやアルコールが良いとはいえないのだが、怒りに身を落とし、心の自傷行為を繰り返すよりはまだマシなのではなかろうか。

 

今回の体験で、自分を顧みるとともに、怒ることについて改めて考えるいい機会になった。弟の騒音問題は解決していないが、新しい視点が得られたのでひとまず良しとしたいと思う。

感情をむき出しにすることは、たまにであればいい発散と自己の欲求の再確認につながる良い行動だろうと思う。しかし、怒りに関しては、慎重に対処していく必要がありそうだ。

 

健全なる精神は、健全なる身体に宿れかし。

 

もう少し筋肉が欲しいなと思いつつ、思うだけで時が過ぎ、微妙にぷにってきたお腹が気になる昼過ぎ。

昨今はなかなかピリピリとした空気が広がっており、抑圧に耐えかねて心を壊してしまう人も多い。かく言う僕自身、怒りの沸点が下がっているのを実感する。

こういう時期だからこそ、自身の感情をコントロールするすべを模索し、自己研鑽に励むのが大切になってくるだろう。自分という存在をより明確に認識し、心の健康をうまくコントロールしていく力を身に着けていきたい。

焦燥感との対話

僕はよく焦る。

一般的に大したことじゃないことでもかなり焦ってしまい、そんな自分に嫌悪感を募らせてしまうことが常であったりする。

正直この特性というか性格はかなり困ったものであり、度々悩みのタネになる。

 

この焦りは一体どこから来るのだろうか?

 

ここ最近、宇宙論の本を最近読んでないなと思い、書店に探しに行くかなどと考えた。

すると、どこからともなく湧いてきたモヤッとした感情が語りかけるのだ。

 

「今から宇宙論を学んだとて何になる。」「そんなことよりすべきことがあるだろう。」「お前にそんな事している資格も時間もないだろう。」

 

なんとも辛辣。我ながら悪口の才能があるなと感心すらしてしまう。この特性は割と困ったものであり、なかなか払拭することができないでいる。

なんとも言語化しにくい感情なのだが、総じて劣等感、失敗することへの不安、こんなことしていていいのかという焦燥感が混ざっているらしい。

 

どうしてこんなにもチャレンジを恐れる劣等感の塊になってしまったのかには、少なからず心当たりがある。

 

過去話

それは、僕自身が昔から成功体験に乏しく、何かをなしていくことができていなかった事が大きな原因ではないかと考えている。僕の人としてのスペックは、お世辞にも人並みとは言い難い。褒められた際にどうしていいか迷ってしまうことが多いのも、褒められたことが少ないということを表している。

 

小中の義務教育の間のみだったが、そこそこ勉強ができたほうであった。あまり人気でない科学においてはかなり点数もよく、頭がいいと周囲が勘違いするには最高の状態だったと言える。要は井の中の蛙だったのだ。

結果として、真に勉強ができる人々の中に放り込まれ、最底辺で泣きながら勉強するという青春を過ごすはめになったのだった。

後に、基礎の基礎からゆっくり丁寧に教えてくれる家庭教師に出会えたことで、少しは平均に近しい学力を得ることができるのだが、それについてはいつか話せればと思う。

 

長々と自分語りをしてしまったが、ここまで書き出していて気がつくのが、怒られた経験はあれど褒められたことがほとんど記憶に無いことである。

科学で満点を取ったときでさえ、提出物で怒られることになったのだ。

 

親を恨むこともできようが、今更恨んだところで意味はないし、後々生きる屍と化した僕を目のあたりにすることになったので、僕の青春で十分好き勝手した報いは受けただろうと思う。

 

ようやく本題。

これから考えるべきは自分の褒め方と自己肯定感の育成である。そのためのブログであるし、こうやって自分の過去を清算していくことで、今後の人生の糧とするのだ。

 

本を買おうとしたときの僕の心情を振り返ってみると、どうやら変な完璧主義があるようだ。0か100か、そんな感覚がある様子。宇宙論について学ぶのならば、極めるべきであるという観念である。

学習=競争という世界に身をおいていた時期が長く、変なスイッチが入ってしまうようなのだ。中途半端はいけないという思想。妄執である。

 

いいんじゃない?適当で。別に100目指さなくても1でいいでしょ。

そう考えることができるようになったのはごく最近だった。世界はそこまで厳格なものではなく、いい具合に適当なのだ。

 

お話を理解していなくてもゲームを遊んでいい。

今読んでる漫画があっても別の漫画を読んでいい。

新しいコンテンツをほっぽって古いコンテンツを嗜むのも一興。

やることあるのに遊びたくなるのは正常な反応であって特別なものではない。

上手くなくても絵を書いていい。

 

当たり前のことだと言われるかもしれないが、僕の中でこれらは長いこと当たり前ではなく、全く知らない概念だったのだ。あるいは知っていたとしても理解していなかったのだろう。

 

僕は僕自身に対して、必要以上に厳しくしすぎていたのだと思う。自分に高望みをし、過度な重圧をかけていたのだ。

そんなことをすれば、失敗しまくるだろう新しいことへの挑戦をしなくなっていくのは道理である。

 

失敗を恐れる根底には、失敗を過度に責める自分自身がいたのだ。

これからは失敗したことよりも、失敗するような挑戦に一歩踏み出した自分を褒めていこうと思う。

僕自身の頑張り、苦労や苦痛を誰より理解しているのは僕をおいて他にいないのだから。

 

そも、長い人生の間、一度も失敗しないなんてありえないことなのだし、そんなに気を張りすぎても切れてしまっては本末転倒なのだ。

思考整理と棚上げする技術。

今朝、とても久しぶりにソラトロボをプレイしていたらふと目頭が熱くなり胸のあたりがキュッとなったことが気がかりになり、大好きなものであるはずなのに苦しくなるのは何事かと思い、ここでしっかりと考えをまとめておかないとなと思ったのだった。

 

すると僕自身の難儀な特性というか、めんどくさい部分が浮き彫りになったので、ここで自分と向き合っておくべきだなと感じたので、雑にまとめて書いておくことに。

 

感情を揺さぶられる事を恐れすぎない。

気持ちが変化することに対して怖いと思ってしまう節がある。しかし、感動したりすることに関して過度に怖がりすぎる必要はない。

好きになることを恐れない。

いつか嫌いになると辛い…と、超未来のことを心配するのではなく今を楽しむ。

お絵描きでは理論やパース、デッサンよりも厨二心を忘れずに。

好き勝手黒歴史量産していた頃を忘れず、「子供っぽいかな」という妄執を出来るだけ避け、好きに描く。

流行り物を追いかけて疲れたら、昔好きだったコンテンツを振り返る。

ちょっと旬を過ぎたから、昔のコンテンツだから…は、好きになる上で障害にならない。

好きなものを繰り返し見たりする事は良いこと。

「新しいコンテンツに触れた方が…」と、変な義務感や罪悪感に駆られず好きに楽しむことが第一。

新しいコンテンツを楽しめない自分を責めない。

全てを好きになることは不可能なので、「自分には合わなかったのだ」と切り替える。
逆に言えば全てを嫌うことも不可能なので、いつか好きなものに出会うだろうから気にしない。

好きなものの評価は自分で決める。

他人に評価を委ねず、「俺は大好き!」を心がける。

予定は立てるもの。趣味の時間は作るもの。

時間がないという常套句で好きになる機会を逃さない。
0か100かではなく…1ページだけ読む。予告だけ見る。5分だけやる。
といった手法で0を1にする意識を持つ。

下手だから。は、絵を描かない理由にはならない。

下手だからゲームしない。読解力が弱いから本読まない。ということがないように、好きな事をするのに上手い下手は関係ない。

ここに書いたことを実践できなくても悲観しない。

これが結局一番重要かも知れない。
この思考に至った事がまず成長なので、その時点でほとんど達成できたようなものと考え、全てを実践するのは人ゆえに不可能なので気にしない。たまに見返して思い出すだけで120点。

 

こうしていちいち書き出さないと気持ちの整理ができないのは何だかなあと思いつつ、そういう特性を持ってしまっているのでなんとか付き合っていくしかないなとも思ったり。

ただ、いざこうして書き出してみると、「なんだ、そんなことだったのか」と、心がスッと落ち着くのを感じる。

悩んだらまずこうして雑に書き出し、一旦外部に保存して棚上げする技術というのは持っておくべきなのだなと改めて思ったのだった。

はじめまして

まず最初に

基本的に個のブログは備忘録や日記的なものなので、あんまり人の役には立たないと思います。

日記という特性上、とりとめのないものや意味不明なものになるかもしれないです。信憑性も微妙です。

 

このブログの目的と方針は、自己啓発、自己分析、思考の整理、備忘録、です。

カッコつけて難しい言葉を並べましたが、要するに自分をもっと知って、より精神を豊かにしようというだけの話です。ついでに文章を書く力を養えればな…という魂胆もあります。

 

やんわりとしたルールを設けていたほうが目的を見失ってしまうことはないと思うので、後の自分のためにもルールを決めておこうかと思います。

 

政治、宗教、性的指向に関する議論は原則禁止。

理由はだいたい分かるかもですが、ひとによって思想の差が幅広すぎるデリケートな話題だからですね。論じる際には慎重に真摯に論じるべき話題なので、普段は論じないことにします。

ネガティブすぎる話題は少なめに。

これは単純に見返した際に自分が楽しくなくなるからですね。見返した際にそこそこ楽しく見られるようなものにしていきたいですね。

無理なく。

これがおそらく一番大事。無理して書くものではなく、思考を整理したいときや、忘れたくないものを書き留めておくためのものとして使っているので、書くのが目的になってしまったら本末転倒です。

 

 

 

こんな感じでしょうか。

誤字脱字もそこまで気にしすぎず、訂正はあとからできるや!と気楽にやっていくつもりです。重要なのはそこではなく、思考を整理することですのd

まったりゆったり…とりとめのない思考を文字にしたり、己を顧みたり、そんな感じのブログにしていきたいですね。