焦燥感との対話
僕はよく焦る。
一般的に大したことじゃないことでもかなり焦ってしまい、そんな自分に嫌悪感を募らせてしまうことが常であったりする。
正直この特性というか性格はかなり困ったものであり、度々悩みのタネになる。
この焦りは一体どこから来るのだろうか?
ここ最近、宇宙論の本を最近読んでないなと思い、書店に探しに行くかなどと考えた。
すると、どこからともなく湧いてきたモヤッとした感情が語りかけるのだ。
「今から宇宙論を学んだとて何になる。」「そんなことよりすべきことがあるだろう。」「お前にそんな事している資格も時間もないだろう。」
なんとも辛辣。我ながら悪口の才能があるなと感心すらしてしまう。この特性は割と困ったものであり、なかなか払拭することができないでいる。
なんとも言語化しにくい感情なのだが、総じて劣等感、失敗することへの不安、こんなことしていていいのかという焦燥感が混ざっているらしい。
どうしてこんなにもチャレンジを恐れる劣等感の塊になってしまったのかには、少なからず心当たりがある。
過去話
それは、僕自身が昔から成功体験に乏しく、何かをなしていくことができていなかった事が大きな原因ではないかと考えている。僕の人としてのスペックは、お世辞にも人並みとは言い難い。褒められた際にどうしていいか迷ってしまうことが多いのも、褒められたことが少ないということを表している。
小中の義務教育の間のみだったが、そこそこ勉強ができたほうであった。あまり人気でない科学においてはかなり点数もよく、頭がいいと周囲が勘違いするには最高の状態だったと言える。要は井の中の蛙だったのだ。
結果として、真に勉強ができる人々の中に放り込まれ、最底辺で泣きながら勉強するという青春を過ごすはめになったのだった。
後に、基礎の基礎からゆっくり丁寧に教えてくれる家庭教師に出会えたことで、少しは平均に近しい学力を得ることができるのだが、それについてはいつか話せればと思う。
長々と自分語りをしてしまったが、ここまで書き出していて気がつくのが、怒られた経験はあれど褒められたことがほとんど記憶に無いことである。
科学で満点を取ったときでさえ、提出物で怒られることになったのだ。
親を恨むこともできようが、今更恨んだところで意味はないし、後々生きる屍と化した僕を目のあたりにすることになったので、僕の青春で十分好き勝手した報いは受けただろうと思う。
ようやく本題。
これから考えるべきは自分の褒め方と自己肯定感の育成である。そのためのブログであるし、こうやって自分の過去を清算していくことで、今後の人生の糧とするのだ。
本を買おうとしたときの僕の心情を振り返ってみると、どうやら変な完璧主義があるようだ。0か100か、そんな感覚がある様子。宇宙論について学ぶのならば、極めるべきであるという観念である。
学習=競争という世界に身をおいていた時期が長く、変なスイッチが入ってしまうようなのだ。中途半端はいけないという思想。妄執である。
いいんじゃない?適当で。別に100目指さなくても1でいいでしょ。
そう考えることができるようになったのはごく最近だった。世界はそこまで厳格なものではなく、いい具合に適当なのだ。
お話を理解していなくてもゲームを遊んでいい。
今読んでる漫画があっても別の漫画を読んでいい。
新しいコンテンツをほっぽって古いコンテンツを嗜むのも一興。
やることあるのに遊びたくなるのは正常な反応であって特別なものではない。
上手くなくても絵を書いていい。
当たり前のことだと言われるかもしれないが、僕の中でこれらは長いこと当たり前ではなく、全く知らない概念だったのだ。あるいは知っていたとしても理解していなかったのだろう。
僕は僕自身に対して、必要以上に厳しくしすぎていたのだと思う。自分に高望みをし、過度な重圧をかけていたのだ。
そんなことをすれば、失敗しまくるだろう新しいことへの挑戦をしなくなっていくのは道理である。
失敗を恐れる根底には、失敗を過度に責める自分自身がいたのだ。
これからは失敗したことよりも、失敗するような挑戦に一歩踏み出した自分を褒めていこうと思う。
僕自身の頑張り、苦労や苦痛を誰より理解しているのは僕をおいて他にいないのだから。
そも、長い人生の間、一度も失敗しないなんてありえないことなのだし、そんなに気を張りすぎても切れてしまっては本末転倒なのだ。