考える繭

セルフ自己啓発や自己分析、思考の整理とか備忘録のためのブログ。

被害妄想と自分勝手

良くない想像をしてしまうというのは、一種の危機回避能力でもあるのだが、あまりに想像が大きくなってしまうと、何もできなくなってしまう。

人に迷惑じゃないか。

いい大人がとか思われないか。

変な目で見られないか。

そんなことを考えて、何も出来なくなってしまうことがある。

 

気付き

お絵かきをしようとした際に、「どうせ上手く描けないしな…」と考えている自分に気がついたとき、少し不思議な気持ちがあった。そもそも、うまい絵を書きたいから始めたのではなく、狐っ娘を描きたいという気持ちから描き始めたのである。

少し上達してきて欲が出てきたのか、うまくなりたいという気持ちが全面に出すぎてしまっていたのだ。

 

うまい絵を見ては劣等感を覚えることが多くなってきたのだが、少し視点を変えて考えてみると、「レベルの差」を正しく認識できるようになってきたのではないか?と考えた。

 

僕と音楽

例えば、音楽に関して僕はなんの知識もない。あのオタマジャクシも読めないし、使えるのはハーモニカとソプラノリコーダーとアルトリコーダーで止まっており、今その3つの扱い方を覚えているのかも怪しい。

そんな状態であるから、音楽に関しての上手い下手が一切わからない。好きな曲や好きな雰囲気まではわかるのだが、それが技術的にどれほど優れているのかと言った部分は一切わからないいのだ。

 

よって、音楽をしている人に対しては、すごいという感覚はあれど、「自分は楽器弾けないし…」と、劣等感を覚えたことは今まで無い。

深く知らないから、自分とどのくらいのレベル差があるのかわからないのだと思われる。

 

絵に関しても、似たようなことが言えるだろう。

つまり、お絵描きをしていない人からすれば、絵の上手さはさほどわからないのではないかということだ。

僕が思っているほど、人は僕の絵に興味がないのだ。

 

人の興味

興味がないと言ってしまうと悪い印象になってしまうのだが、要はそこまで気にしすぎることはないというニュアンスである。

僕が音楽の良し悪しを全く分からないのと同じく、側からみれば絵の良し悪しなんて大した問題ではないのかもしれないな…という話なのだ。

 

このご時世。どうしても人目が気になることは多々あるし、認めてもらいたいなと思う気持ちも湧いてくる。

しかし、実際は人はあんまり自分に興味がなく、さほど期待もしていないのかもなと、心のどこかで思っておくことで、人は何かの趣味や行動に対して、少しだけ「自分勝手」になれるのかもしれない。